トルコ地中海沿岸地方、自分を癒す為のワークの旅 パート4

 

さて、トルコには沢山の古代遺跡の至宝があることを、今回のトルコに来て初めて知りました。私が見た最も古いのは紀元前約400年前のリュキア文明の古代遺跡です。

 

 

リキュア文明について私の記憶にはなく新しい文明でした。それもそのはす日本の学校では習わないからです。

 

 

何故この重要な文明を学校で習わなかったのかわかりませんが、リキュア文明についてはまだ謎に包まれていて、現在も考古学者が広大な土地に散在する遺跡を発掘し続けています。

 

 

トルコ政府は「トルコ人にとって生活の中に古代遺跡が存在し、それはトルコ人にとってごく当たり前の日常の生活の風景の一部である」と言っています。

 

 

私はこのブログを書きながら、これまで出会ったこのない美しい景色を山のように目にして、いろんなものを皆さんにお伝えしたくて長くなっています。

 

 

この地中海沿岸の広大で自然が豊かな土地にある古代遺跡やそこに暮らす人々の生活の中にみた、「真の豊さ」が今、ブログを書きながら改めてみえて私自身がトラウマワークはこの旅丸ごとであったように思います。

 

 

今回の癒しの旅「呼吸をつかったトラウマワークショップ」以外からの気づきは旅をしている時には
ハッキリと自分の中にみえていませんでしたが、ブログを書き始めて気づきました。はるか昔の古代から同じうつくし自然の豊かさを受け取ってきた人々の暮らしが遺跡の中にあったこと。

 

 

私が訪れた土地にある遺跡はビックリするほどの癒しのエネルギーがありました。遺跡の中に見える美しさは今も昔も変わらないのです。ここに載せた資料は他の文献などから参考させていただいています。

 

 

地中海のリキュア文明が見せてくれるもの

 

 

約3,000年前のホメロスの時代に栄えたリキュア文明は「リキュア連邦」の6つの構成都市を持ってました。最大の都市だったのがクサントス、トロス、ピナーラ、パタラ、オリンポス、ミラです。

 

 

今回、私が自分の足を運んだ古代遺跡は6つの大都市のうち、トロスパタラです。そして最初に訪れたトロス遺跡は私がお世話になった家のすぐ近くにありました。パタラは昔、海であったといわれてます。

 

 

 

古代都市遺跡トロスは村人の生活の一部分

 

 

この遺跡はなんとリキュア、ビザンチン帝国、ローマ帝国の長い歴史の時代を経て崖の丘の上にあるリキュアのお墓の上ビザンチン帝国お城、要塞がひとまとめになって存在しています。

 

 

トロス遺跡の入り口にはローマの遺跡が作った門があります。このトロスで最も古いの遺跡がリキュアの墓で岩山をくりぬいて作られている。

 

 

 

ビザンチン帝国東がローマ帝国を東西に分割し、395年以降のローマ帝国の東側に統治された領域をもった国家です。3世紀以降断続的に存在し続づけた、東の皇帝の統治領域をさしています。

 

 

実際には当時の国法的にはローマ帝国が分裂している事実は存在していなく、当時の東西、合わせて一つのローマ帝国として考えられてました。

 

 

トロスのある村はリトリートで私が訪れた街エーゲ海、地中海沿岸地方のフェティエ(Fethiye)という小さな街から一時間程山間に入ったトルコ南部ムーラ県(Mugla Province)の田舎村カヤキョイ(Kayakoy)村の中にあります。

 

 

上の古代遺跡の水道橋がものがたる。私たちに欠かせない「水」の大切さを思い出させてくれる。そして遺跡に行く途中にはローマの劇場も見られます。

 

 

山からの新鮮な空気と水で畑を耕し、ヤギの放牧がされていたりと美しい地球のエネルギーを感じれる山の中腹にある村に遺跡が存在しています。

 

 

トロス遺跡の裏側、周りの風景も魅力でいっぱいです。呼吸をするたびに私達は自然の風景に溶け込めます。一つで繋がっています。

 

 

 

 

 

 

その土地からあふれる力強いエネルギーを受け取りながら、暮らしている人々の魂の中にはリキュアの民の姿をみます。

 

 

トロスから見下ろす美しい景色は天から地を見下ろすような光景でした。冷たい空気が呼吸をするたびにカラダの隅々にとどき、綺麗な空気とよどんだ空気が入れ替わるのが分かります。すると心は晴れていきます。

 

リキュア人達は現在のアンタルヤからフェティエまでの山と海に囲まれた地中海最高の景色を持つ地域に住み、自由と独立をモットー人類最初の民主主義的なリキュア人連盟を作り上げたとして知られています。

 

この光景はこの土地に足を踏み入れた人たちにどのように映ったのでしょうか。晴れ渡る大きな空に向かって小高い丘に立ちたいと思うのでしょうか。天空に近いように感じたのでしょうか。

 

パタラの遺跡の一部、リキュアのシンボル⇩

 

古代ギリシャ人達はそれぞれの街や領土を守りながら拡大していくためにギリシャ人同士であっても戦いを続ける中、リキュア人同士は平和を重んじそれぞれの街を尊重しながら楽しく生活していたと言われています。

 

リキュアの土地に咲くアネモネ⇩

 

 

一説にはリキュア人は地域から移住してきたのではなく、古代リキュア国の領域、キョイジェイズからアンタルヤの間で、北側は現在のベイ山脈とアク山の山々は富士山より高い3,000メートル超える場所の先住民とも考えられています。

 

 

 

リキュア人は独立意識が強くて、クサントスの民たちは敵の侵入に対して、征服されるよりいいと、侵入者との闘いの為に自ら妻子を殺し闘いに挑みましたが敗れることが分かると火を放って死んだそうです。

 

 

彼らはまた独自の言語を使って話し、習慣も変わっていたようで、歴史家ヘロドトスは「彼らは自分たちの血統は父方ではなく母方にあると考えている」で、女系と記述しています。

 

 

ヒッタイト人、アレキサンダー大王、ローマ帝国の緩やかな占領されながらも23都市がリキュア人達の国家として独立的立場を持って形成されました。

 

 

しかしながら西暦1世紀および2世紀に起こった大地震により、リキュアの街は大被害を受け、その後は衰退の道をたどりました。

 

 

サンタクロースのモデルとなった聖人ニコラスの登場によりこの地域は次第にキリスト教徒が定住するようになり、その後セルジュク人やトルコ民族の定住によりリキュア連盟は完全に消滅しました。

 

 

古代文明リュキアの都市の流れ

 

 

リュキア要塞の基礎は紀元前2,000年頃にさかのぼり、古代、この偉大な都市はクサントス渓谷の真珠といわれていました。

 

 

このクサントスとは古代都市のキサントストルコという名の英雄的な行為をしたものたちのことを指し、渓谷には多くの遺跡がのこっています。

 

 

 

 

ホーマーの「イリアッド」とべレロポンの神話に出てくる古代都市の一つで、クサントスはイオパテス王の住居があり強力な都市となっていました。

 

 

私が訪れた、トロス遺跡には一番最初の古代リュキアの都市がありました。侵略から逃れる為の要塞が作られ、とても豊かさの多い重要な場所でした。

 

 

 

古代リュキアの王族の墓とパタラの大都市

 

遺跡があるこの豊かな地中海の土地への定住は約4,000年以上前にさかのぼるといわれていて、最古で最大の集落(リュキア碑文で「トロワ」として知られている)の一部です。

 

 

青銅器時代、リキュアの前にはトロイにさかのぼる11もの青銅時代がありました。(ウィキペディアより)最も古いのがトロイです。

 

 

リキュアの墓が残る、私が訪れたトロスの遺跡のある場所は私達が宿泊していたクサントス渓谷の東側にあって、近代的な村の高原の傾斜した岩の露頭の上にあります。

 

アナトリア地方に暮らしていた民族がリュキア人の先祖という説もありますがこの地域を古くから住み始めた先住民といわれていますが、後にここを支配していたのはギリシアから来た人たちです。

 

 

また、この地域はギリシャ民族の植民地として築かれていましたが、20世紀初頭の希土戦争後、この地域がトルコ民族に支配されるようになりましたがギリシャ人も生活を続けていました。

 

 

リュキアの歴史には古代エジプトの記録の中に、紀元前1,250年頃、ヒッタイ帝国と同盟を結ぶアスワ同盟の一員にルッカという民族がリュキア人であるとされています。下はパタラの広大な海に続く土地に広がる遺跡群の一部です。

 

 

このパタラで見るものはギリシャ神話の中に出てくる古代都市を思わせます。ギリシャ神話ではリュキア王国を支配していたのはクレタ島から流浪してきたゼウスとラオダメイアの子、サルぺドンに従う、ミノス王の兄妹のテルミアとよばれた。

 

ミルヤン人という人々を征服し王朝を築き、後にクレタ島の人々が小アジアに入植したことがギリシャ神話の中でリュキアが登場している。

 

 

後に紀元前189年に、リュキアは共和制ローマの支配下に入り、紀元前188年頃からの支配がどんどん変わり紀元前168年に独立した。

 

 

 

リュキア地方の都市国家は分かっているだけで23都市はあり、当時リュキア連邦を結成し、周囲の大きな国家に対する力をまとめていたけれど最後には衰退しました。

 

 

 

連邦に参加した主要都市にはクレサントス、パタラ、ピナラ、オリンポス、ミラ、トロスなどがあり、首都はパタラにあったのです。

 

 

 

やがて、西暦4年、初代ローマ皇帝アウグスティヌスの時代、後継者のクラウディウスがリュキアとパンピュリアと合併して、ローマ帝国の属州として、リュキア属州をつくった。

 

 

そしてその後、4世紀にリュキアはビザンチン帝国(東ローマ帝国)の一部となり、更にオスマン帝国に支配権が移り、トルコに組み込まれるようになりました。

 

 

 

2世紀の文章のなかに、『リュキアの都市の歴史の魅力は、遺跡には残っていない。リュキアは過去の輝きをすべて手放した』という記述がありますが外側はそう見えますが内側の輝きは今ものこっていました。それはここを訪れる人のハートをとらえるからです。

 

 

この言葉にはとても深い意味があります。それは今現在もリュキアの多くの遺物は今日まで残っている断崖に岩を削って作った墓所に叡智を残しています。墓もそうですが、この土地から世界に広がった光の渦が今の私たちの暮らしに繋がっているのです。

 

リュキアは、ギリシャ神話に登場する女神レート―は、ゼウスの子である二人の子供、アポローンとアルテミスの母が立ち寄った場所で3人を祭る重要な土地であったそうです。

 

 

リキュアの歴史、この地域の外からの侵入は、この土地がとてゆたかであったからころ、多くの民族に侵略されてきたともいわれています。

 

 

そんな豊かな土地を持つトルコの国にはまだまだ埋もれている遺跡を発掘している最中でもあるようです。そんな遺跡を横にして日常を送るトルコの人々の内側にリキュアの輝きが確かにあるとわかります。内側に込められた強いエネルギーはこれから外に強い光の光線となっていくのを感じます。

Youtube動画も是非ご覧ください, またいいね、チャンネル登録もよろしくお願いします。

 

この続きはまた♡

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